翻訳と辞書
Words near each other
・ ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ (ルィリスク公)
・ ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ
・ ムスチスラフ・ダニーロヴィチ
・ ムスチスラフ・ダヴィドヴィチ
・ ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ
・ ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ
・ ムスチスラフ・ユーリエヴィチ
・ ムスチスラフ・ユーリエヴィチ (ノヴゴロド公)
・ ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ
・ ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (スモレンスク公)
ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (ロストフ公)
・ ムスチスラフ・ロストロポービッチ
・ ムスチスラヴリ
・ ムスチスラヴリ公
・ ムスチスラヴリ公国
・ ムスッペル
・ ムスツィスラウ
・ ムスティ
・ ムスティエ
・ ムスティエ・ヴァンタドゥール


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (ロストフ公) : ミニ英和和英辞書
ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (ロストフ公)[こう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough
ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (ロストフ公) : ウィキペディア日本語版
ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (ロストフ公)[こう]
ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ(、? - 1178年4月20日)はロスチスラフ(ru)の長男、ユーリー・ドルゴルーキーの孫にあたる人物である。ノヴゴロド公:1160年、1175年 - 1176年、1177年 - 1178年。ゴロデツ・オスチョール公:1169年 - 1171年。ロストフ公:1175年 - 1176年。通称ベゾキー(Безокий / 目のない者、の意)。
==生涯==

1174年ウラジーミル大公アンドレイ・ボゴリュブスキー(ru)を殺害したロストフスーズダリボヤーリン(貴族)たちは、ムスチスラフと弟のヤロポルク(ru)をそれぞれのクニャージ(公)として招聘した。これによってムスチスラフはロストフに、ヤロポルクはスーズダリに着任した。ボヤーリンたちは、多数の点から判断するに、アンドレイが首都としたウラジーミルを公国の首都とは認めていなかったと思われる。一方、ウラジーミルの人々から招聘されたミハイルは、ボヤーリン達とムスチスラフ・ヤロポルク兄弟の軍勢に圧迫され、チェルニゴフへの避難を余儀なくされている。ただしチェルニゴフ公国からの支援を得たミハイルは翌年(1175年)にはウラジーミルへの帰還を果たし、スーズダリにおいてもミハイルの公位を承認されている。
1176年、ミハイルが死ぬと、ムスチスラフとヤロポルクは公位の奪還を試みたが、ユーリエフ・ポリスキー付近で行われたリピツァの戦い(ru)フセヴォロドに敗れた。ムスチスラフらは妹の夫であるリャザン公グレプの下へ逃れ、再度軍を起こしたが、1177年のコロクシャの戦い(ru)において再びフセヴォロドに敗北し、ムスチスラフは捕虜となった。ムスチスラフの妻の兄弟であるスモレンスク公ムスチスラフが仲裁をなしたが効果はなく、牢獄(Поруб(ru))にとどめ置かれ、後に目を潰された。1178年に没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ (ロストフ公)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.